【第六十二夜】 別れの儀式

この冬のおくればせな大寒波がはじまった先月末の日曜に、わたしたち夫婦はあるシナ学者の伝記映画を見にちょっと遠出をした。

途中、家内が、だいたいこのあたりがS夫人の故郷なのだ、とわたしに告げた。なぜS夫人のことを思い出したのかといえば、その一週間ほど前にS夫人からひさしぶりの電話があり、原因不明の背中の痛みの検査のためまもなく入院するとのことだったそうだ。

S夫人については、もう四年以上も前に、夢想千一夜の第七夜、インド・谷底からの声 で述べたことがある。そこで述べたことのほぼ九割は事実であった。

さてその日曜日からはじまった大寒波に身を縮めて暮らしている日々に、突然S夫人の訃報がもたらされた。面識のない友人という方からの電話では、入院してから検査の準備中に肺炎を起こしそのまま亡くなってしまった、ということだ。

わたしたちが、その故郷の近くで彼女を想っていた日の前日には、S夫人はもうこの世に住む人ではなかったのである。


電話を受けた家内は、そういえばS夫人の最後になってしまった電話では、入院したくない、という言葉がやけに悲しそうであった、ということである。





家内がS夫人と知り合ったのは、彼女がシナ学を始めたころで、わたしと知り合うずっと以前のことだったという。家内の故郷にある某工業短期大学の英語教師であったS夫人が、シナ学博士であったので、それを知る共通の友人から何かの助けになるので、と紹介されたらしい。


S夫人が専門のシナ学ではなくなぜ英語教師として世過ぎをしていたかは上記記事に述べたはずだ。

いずれにせよ、S夫人は家内の年上のしかも義母とは同年生まれの友人なのであった。ゆえに、わたしぬきでの交友もあった。


たとえば亡きS氏の甥夫妻がドイツを訪問した際は、S夫人が彼らをともなってわが家を訪れもしていたのだが、わたしは勤務を休んでまでそれにお付き合いをすることはなかった。またときおりある電話連絡でもわたしに特に話すこともなく挨拶を終えるとすぐ家内に取り次いでいた。

わたしたちがS夫人をその終の棲家であるバーデン・バーデンに訪ねたのはもう二十年前のことになろう。シナとドイツをめぐるわたしたち夫婦のエニシについての鍵の一つであるS夫人を訪ねることは、わたしにとってはやっておくべき事であった。そして世界についてのフシギな出来事の一つであるS夫人の経験に感慨をもたされたのであった。

あれから二十年、わたしとS夫人とは淡い交流であったが、その生の最期のときを迎えるにあたって別れの儀式のような電話連絡をされてきたのは、晩年はチベット仏教に帰依されていたS夫人の瞑想生活がもたらしたインスパイアのようなものがあったのだろうか。





死後二週間たってやっと葬儀の予定の連絡があった。訃報をもたらしてくれた方からである。故郷近くに住んでいるはずの唯一の身内であるS夫人の妹さんにははたして連絡がついたのだろうか?

葬儀はバーデン・バーデンで行われる。家内はもちろん参列するのだが、さてわたしが同行すべきかどうかまだ迷っている。

わたしにとっては、家内の友人ではあるが、故人の想い出はすでにブログで述べたことがすべてなのであって、その後の二十年間というものお会いしたのはただの一度しかなかったからである。その時は、まだ幼かった息子に会うため訪ねてきてくださったのだが、わたしたちがバーデン・バーデンを再訪することはついになかった。


ちなみに、葬儀はあの白いブラームス・ハウスの立つ岡の下の修道院内のチャペルでとりおこなわれるという。

しかし、わたしはけっきょく参列しないだろう。わたしにとって、S夫人との別れの儀式はもうすでにすんでいるような気がするからだ。

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