【第六十二夜】 別れの儀式

この冬のおくればせな大寒波がはじまった先月末の日曜に、わたしたち夫婦はあるシナ学者の伝記映画を見にちょっと遠出をした。 途中、家内が、だいたいこのあたりがS夫人の故郷なのだ、とわたしに告げた。なぜS夫人のことを思い出したのかといえば、その一週間ほど前にS夫人からひさしぶりの電話があり、原因不明の背中の痛みの検査のためまもなく入院す…
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【第六十一夜】 カントン・エレジー

広州は香港から内陸へ入ること140キロの広東省都である。香港の蒸し暑さは有名ではあるが、それでもその海洋性の気候で相対的には涼しいのであることを広州で知ることになった。それほど広州の湿気は多く、香港のような海からの風がないので耐え難いのである。 といっても、わたしは旧正月前の広州を一度だけ訪れたことがあるだけなのであるからえらそう…
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【第六十夜】 哀しみのエトランゼ

淮海路と茂名南路の交差点、国泰電影院(キャセイ)のはす向かいに「老大昌」という洋菓子屋があった。しかし前世紀最期の年の上海再訪では、そこはデパートに変わってしまっていた。 「老大昌」の洋菓子はしかしフランス菓子ではなく、例によってロシア風なのであった。そのころの洋風はすなわちロシア風の代名詞であった。おそらく「中」ソ蜜月時代にフラ…
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【第五十九夜】 金儲けの秘密

前々回で述べた上海の某大学専家楼の責任者はもちろん党員だった。その名を仮にZ先生としておく。彼は北京人だが上海へ来た経緯は知らない。興味があったが彼は語らないのだ。 訛りの強い上海人とちがい、Z先生の普通話は北京方言の語尾のR化はなはだしいとはいえ耳に心地よいものだった。彼は党の路線に忠実ではあったが融通の利かない堅苦しい人物では…
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【第五十八夜】 死者の街の入り口で

ベルギーの作家・ローデンバックに、小説『死都ブルージュ』があるが、ブルージュ自体は死んではいない。ただ土砂がつもって港が使用不能になったため、かっての貿易港としての繁栄を失い、死んだような街となってしまった、ということだ。その街を背景に、死んだ妻の幻影を街でであった女に見て、その女を追いかける、というのがその小説の筋である。ブルージュ(…
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【第五十七夜】 専家楼のぬし婆

「専家」とは「ジュアンジァ」と読む。シナ語でスペシャリストのことであるが、大学などで外国語講師として招請した外国人をこう呼んだ。明治初期のわが国にも似たような制度があった。 「専家楼」とは、すなわち彼らが住む宿舎である。 わたしが上海に遊学中に、その所属する大学の専家楼にはよくでかけた。前回のべた和平飯店や錦江飯…
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【第五十六夜】 茂名南路の明かり

わたしが上海にいたころ、もっともよく出かけたのは南京東路と茂名南路だった。前者は和平飯店があり、後者には錦江飯店があるからだ。 シナ語で「飯店」とはホテルのことであるが、わたしは文字通り「飯を食う店」として利用していた。 そのころはまだ食糧配給切符「糧票」というものがあった。つまり食糧が充分ではなく配給制なのであった。ゆ…
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【第五十五夜】 文質彬彬

C老師は上海ではじめてあったタイプのシナ人であった。 かれはわたしのシナ語教師のひとりであったが、他の誰ともちがった人格でわたしの記憶に残っている。 それは強力な印象ではなく、ふとすると忘れてしまうような儚い印象であるからこそ、尊大で驕慢な自己主張ばかりを見飽きたシナにおける生活の中では、そこだけほっと息がつけるような、その…
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【第五十四夜】 R伯父さんと「ユダヤの陰謀」

R伯父さんの母方の祖父はユダヤ人だった。それゆえその身分証明書には<J>の文字が印刷され一目でそれと検査する人間に知れるようになっていたという。 R伯父さんは戦争が始まると16歳で徴兵され6年間というもの、つまり第二次世界大戦のの全期間中、前線をあちこち転戦させられ帰宅を赦されなかった。 すなわちユダヤ人は早く死ね、というこ…
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【第五十三夜】 岸辺の鳴き声

それはたぶん寒さがわたしにそんな夢を見させたのであろう、と思う。事実、寒さで目が覚めたのであったから、そのとおりなのであろう。と信じたい。 わたしは暗い岸辺にいた。 もう雪は止んでいたが、日暮れが近づいていた。 このまま茫々とした荒れ野で夜を迎えるわけには行かない。しかしわたしはぜんぜん急ぐ気持ちや焦りはなかった。 …
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【第五十二夜】孤独な労働

夢でわたしは工場にいた。その二階の事務所で急を聞いて下の階の生産現場に行くと、そこは積雪のように一面の白に覆われていた。 しかしそれは雪ではなかった。ちょうど豚の白身でつくるラードのようでもあるし、マシュマロのようでもあった。 何かの事故で化学製品が噴出したようにも見えた。 わたしは一人スコップをもってそれを排除し始め…
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【第五十一夜】 バロック教会の足音

夢でどこかの教会にいた。ドイツ南部にあちこち点在するバロック教会のひとつだろう。明るい天井画から天使たちが落ちてきそうな午後である。 わたしは師と二人で隅から隅まで輝かしく厳粛な中にも生の歓びに満ちた世界にうっとりとしていた。師の歩む速度はきわめて遅い。 一度なぜかと尋ねたことがあった。 なに、子供たちが幼いころその歩…
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【第五十夜】 M先生の思い出

別の場所で、マオ・ドンの『子夜』について話をしたのだったが、それでマオ・ドン(茅盾)の専門家であるM先生のことを思い出した。あえてお名前は記さずとも少しシナ文学を知る方なら、ああ、あのM先生、とわかるはずである。 しかしわたしは先生の弟子でもなんでもない。ただ一年だけその講義を拝聴しただけなのである。先生は少しもきどったところがな…
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【第四十九夜】 はじめてのパリ

それは、北京からシベリア鉄道でベルリンまでを一週間かけて旅したその夏のことだった。わたしははじめてパリにいた。モスクワからの列車はパリ行きだったのであったが、ベルリンで下車したから、その後のことである。 八月のパリは閑散としていた。休暇で多くの人々が首都を抜け出していたからだ。街で目に付くのはドイツ人旅行者と道路掃除のアフリカ人だ…
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【第四十八夜】 長安街を行くバス

北京の人々は、上海のそれとくらべておっとりとして礼儀をわきまえた振る舞いをするな、と感じたのは、上海に住んでからのことだった。 とくにお年寄りの方たちの、こちらが礼を示したときのきちんとした対応は好ましいものだった。 上海では、こちらが外国人とわかっていても上海語で押し通す強情さがあった。あれはきっと北京語を話せないからだと…
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【第四十七夜】 神楽坂をくだって

いぜん、赤城神社下にあったある場所に勤務していた。あとで、そのあたりにはパリへ旅立つ前の金子光晴が住んでいたことを、彼の『どくろ杯』だったか、で知った。それはともかく、場所柄、神楽坂を上り下りしてぶらつくことが多かった。 しかし、不思議とそのころのことを夢に見ることはなく、ただときおりふと記憶のそこから浮き上がる泡のようなあれこれ…
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【第四十六夜】 ざわめく夜

ひさしぶりに夢を見た。どうも上海のようだが確かではない。ただ人が溢れかえるその様子は、上海南京路のようにしか思えない。 わたしは実に久しぶりにシナ語を耳にしている。 すこし懐かしい気分なのはなぜだろう? しかし見知った人間は誰一人としていないのだ、ただ遠慮ないあたりをはばからぬ大声がわたしの前後左右を飛び交っているだけ…
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【第四十五夜】 ベルリン植物園

わたしが一週間のシベリア鉄道の旅を終えて、ベルリンに到着した経緯についてはもうすでに述べておいた。ここでは、短かった最初のベルリン滞在の際の、小さな想い出について述べてみたい。 そのころのベルリンは東西を壁に隔てられていたのはご存知のとおりである。ポツダマー広場などは、草茫茫としてガラーンとした廃墟というよりもまだ惨めな様子であっ…
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【第四十四夜】 桐の花

不吉な夢に目覚めると、ざらざらとした枕がほほに触れた。 ナイト・テーブルの上にもうっすらと細かいパウダーのような砂が積もっている。 今日も外は黄沙が吹いている。この部屋は南向きなのに、コの字に設計された建物のせいか、風が巻き込まれるようで、やはり窓にはときおり強い風が吹きつける。 こん…
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【第四十三夜】 断ちきれない泡

もう二十数年もたったというのに、折にふれてぽっかりと浮かび上がってるくる光景がある。想い出というほどのものではない、ただのなにげない出来事なのではあるが。 その夜は、他の大学の友人とおそくまで話し込んでしまい、少し離れた自分の大学の宿舎に帰るころは、もう道にはほとんど人通りはなかった。 それでも道筋にある工場群は、闇に溶け込…
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