【第六十一夜】 カントン・エレジー

広州は香港から内陸へ入ること140キロの広東省都である。香港の蒸し暑さは有名ではあるが、それでもその海洋性の気候で相対的には涼しいのであることを広州で知ることになった。それほど広州の湿気は多く、香港のような海からの風がないので耐え難いのである。

といっても、わたしは旧正月前の広州を一度だけ訪れたことがあるだけなのであるからえらそうな判断はできない。

その冬、今の家内が留学交換の期間を終了し香港から帰国便に搭乗することになり、わたしは彼女を香港まで送っていったのだった。

当時は上海から列車で広州までは30数時間の旅程である。途中停車した杭州駅で若い女性の声で構内アナウンスが、「ようこそ杭州へ、美しき街へ」と繰り返しているのが無性に悲しく思えたのは、都合前後して六度もおとずれたその街をそのときは訪れることができなかったからだろうか?

到着した広州駅前は、その後「盲流」という内陸部からの出稼ぎ労働者で溢れかえったのであるが、その頃はまだ閑散としたものだった。

ただし一歩足を踏み入れた途端おそってきた湿気に驚かされたのである。


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時節は旧正月前、上海では一番寒いころである。しかし広州では着ていたダウンジャケットを脱ぎ捨ててもまだ暑く感じるほどだった。

滞在は珠江のほとりの外国人むけのホテルにした。限られた滞在日数で効率よく観光しまた香港へのトランジットの便を考えたからだ。部屋の窓から見えるものはしかし珠江ではなく広州下町の貧民街であった。

そのころは、停滞した上海にかわって広州がもっとも経済発展した都市といわれていた。
深圳はまだ建設中のころである。その広州にして上海以上の貧しい地域をまだ抱え込んでいることが新鮮にも思えた。

それでも珠江に沿ってぶらつくとすぐに広州が経済先進地域であることは一目瞭然として理解できた。まず人々の服装が上海よりカラフルである。そしていかにも南国風に路上にだされたファストフード店のテラス席には客が溢れている。まるで香港なのである。そんな光景は上海にはまだなかった。

そしてなにより相席した若い男女のグループの闊達なしかし遠慮深い態度が上海やそれまで旅した内陸諸都市の人々とはちがっていた。はっきりいえばシナとは思えぬ文明度なのである。すでに香港化はそこまでやってきているのであった。


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そこで予見したように、世紀末の上海は、わたしが80年代半ばの広州で体験した風に変容をとげるのだが、そのころはまだ死に水のような停滞と無気力に沈んでいたのである。そんな上海からやってきたわたしたちは広州ではすっかり田舎ものであった。

その違和感は言葉からもきていた。上海では上海人同士は基本的に上海語をしゃべる。それでもよそ者には普通語で応対することもできた。しかし広州では広東語しかできないものがおおいのである。老人たちはもちろん若い者たちでさえ普通語がままならぬ。TVを見ても北京語の番組にはみな漢字しかも広東語の字幕つきなのである。

広東語圏というものが確かに存在することを実感した。人々はそこでは香港を首都と見なしその社会風俗、文化様式を模倣しているのだった。

明日は香港という広州最後の夜、わたしたちは窓の下にひろがる広州の貧民窟を見下ろしながらシナの近現代がたどった歴史を思い返していた。革命はこの地から発して全国を覆ったのであるが、しかしその道のりはまだまだ遠いと思われた。


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そして、はたして「革命」は何をこの地にもたらしたのであろうか、という根本的疑問が、見るからに落ちぶれた建築物の甍の波のつづく広州の闇の向こうの方から押し寄せてくるのを感じていた。


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