【第六十夜】 哀しみのエトランゼ

淮海路と茂名南路の交差点、国泰電影院(キャセイ)のはす向かいに「老大昌」という洋菓子屋があった。しかし前世紀最期の年の上海再訪では、そこはデパートに変わってしまっていた。

「老大昌」の洋菓子はしかしフランス菓子ではなく、例によってロシア風なのであった。そのころの洋風はすなわちロシア風の代名詞であった。おそらく「中」ソ蜜月時代にフランスは一掃されてしまったのだ。

それはともかく、その「老大昌」の前でいつもリリーと待ち合わせたものだ。彼女は、そのころつきあい始めた今の家内の友人で、ドイツ語学習者兼出国希望者でもあった。


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そのころは外国人とつきあうことは大きなリスクをしょっていた。われわれ外国人は留学生といえども公安からしっかりマークされていたから、外国人とつきあうことは自然と公安からスパイ容疑者としてマークされることになる。

それでもリリーはわれわれと表面上は平然とつきあった。それというのも彼女はシナになにも期待しておらず一日も早く出国するのが夢だったからだ。

その理由は、彼女の父親が「資本家」として階級区分されてしまい、文革時にはつるし上げの対象であったから家族はそろって辛酸をなめた、ということらしかった。「資本家」といっても小さな町工場を経営していただけなのだ。


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文革当時は毎日のように批判大会が催され、彼女とその兄も父親を批判するよう強制されたが、兄妹は頑としてそれには応じなかったそうである。家族は住居を追われ、重慶南路のとある二部屋だけのアパートへ引越しを強制されそこにその時も住んでいた。ベッドは両親用の一台しかなく、兄は書き物机の上、妹はソファーで就寝するのだった。

何度か家に招待されて食事をご馳走になったが、その暮らしぶりはしかし清潔で質素であった。蘇州人の母親は蘇州語しかしゃべれず兄妹がいつもわれわれに通訳をしてくれた。おばさんの作る蘇州料理は甘かったが、肉や魚、野菜が豊富で、それだけの食材を準備するため、当時の上海でどれだけの労力を要するかわれわれはよく知っていたので感謝に耐えなかった。

両親の希望も、子供たちのどちらか、あるいは両方とも出国して家族の将来へ道を拓くことであった。それで兄は日本語、妹はドイツ語をならった。ドイツ語はそのころは知らなかったので彼女がどれほどできるのか判断できなかったが、兄のほうの日本語は殆ど完璧だった。

中華人民共和国建国35周年の国慶節は、鄧小平の大閲兵で有名だったが、わたしは上海のリリーの家でその日もまた夕食をご馳走になっていた。人民広場の打ち上げられる花火が窓から望まれた。


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リリーの兄はその時花火を眺めながらわたしに日本語でその決心をつげた。外国でどんな苦労がまっていようと自分は粉骨砕身がんばりつづける覚悟ができている、ついてはよろしく頼む、と。

けっきょく兄妹は日本へと出国できたのだが、その方法については今まだ語る時期ではない。けっして非合法な渡航ではなかったが、あとになって騙されたと感じた日本人がいたことをわたしは知っているだけだ。

わたしたち夫婦が日本をあとに渡独してからは連絡が途絶えてしまったが、その後、兄妹ともドイツにいるということを人づてにきいたことがある。

そうであるなら、おそらく兄妹は両親を呼び寄せたにちがいない。そして家族にエトランゼ(異人)としての待遇しかあたえてくれなかった上海という故郷をいまごろはかえって懐かしんでいるのかもしれない。


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