【第五十七夜】 専家楼のぬし婆

「専家」とは「ジュアンジァ」と読む。シナ語でスペシャリストのことであるが、大学などで外国語講師として招請した外国人をこう呼んだ。明治初期のわが国にも似たような制度があった。


「専家楼」とは、すなわち彼らが住む宿舎である。


わたしが上海に遊学中に、その所属する大学の専家楼にはよくでかけた。前回のべた和平飯店や錦江飯店と同じく飯店つまり「飯を食う店」としてであった。専家楼には専家たちのための食堂があるからだ。


和平飯店や錦江飯店となるとタクシーで乗りつけることになるからそうそう毎回というわけには行かぬ。


しかし専家楼の食堂は、留学生食堂よりはずっとましで価格もそう高いものではなかったからだ。また思い立ってすぐに間に合う距離であることもうれしかった。


画像




当時のその大学は長期留学生を公募しておらず交換留学生とかコネでやってきた者たちだけであったから、専家楼側でもそういちいち目くじら立てて留学生はお断り、などという野暮もいわず、歓迎はしないがテキトーにあしらってくれていた。


その大学は外国語専門であったから外国人講師も沢山おり専家楼もその食堂もなかなか立派なものであった。


いつもそこを利用するうち、そこに居住する講師たちとの交流もでてくるのは自然の流れである。そして講師たち同志の人間関係にも目が行くようになった。


フランス語講師だったF女子(と仮になづける)はその中でも目立つ存在だった。まるでそこの主然としていたからだ。


講師だった、と過去形にしたのは、彼女はその時はもう退職しており、故国に身よりもなく、そのまま上海のその宿舎にとどまり余生を送って、あるいは送らせてもらっているのであった。


あの頃すでに退職者であったからには、今でも健在なら百歳を超えていようか。



画像




その若き頃は見目麗しかったかどうかはいざ知らず、そのころのF女子はもう魔女やかくあらん、という見かけであったし、その吐き散らす毒のある言葉はまさに魔女そのままだった。


彼女のしゃべる言葉はフランス語のみで、門外漢のわたしにはいくつかの単語がわかるばかりであったが、パリ留学の経験もあった、その頃つきあいはじめた今の家内にはF女子の言葉は理解できたので、たまには相手をしてやっていた。


異国でリタイア生活を送る彼女はけっきょくのところ淋しかったのだ。


しかし個人主義を最大の倫理命題とするフランス人としては愚痴をこぼすこともできず、彼女からすれば若造や箱入り娘がごときナイーヴな存在にすぎぬ各国の講師たちに毒づくことで無聊を慰めていたのであろう。


そして各国講師たちもF女子に対しては尊敬とはゆかぬまでも、ある優しい感情をもって接していたようだった。そこには欧米流のヒューマニズムのよい面での表出が見られた。



画像




後になって家内がF女子から仄聞したその経歴はしかし驚くべきものであった。


彼女はコミンテルンから派遣されて上海にやってきた父母のもとにフランス租界で生まれ育った「上海人」でもあったのだ。


しかしとうとうシナ語(北京方言)も上海語も解することなくフランス語だけで一生を過ごしてしまったのだ。


F女子は、親譲りのコミュニストでマオをいたく尊敬していたらしい。


それ以外の詳細な経歴を家内が聞いたのかどうかはもう失念してしまった。なにしろ二十五年以上も前のことなのである。


F女子が現今のような中共とその統治下で資本主義を実行するシナと上海をどう思うのか、ぜひとも聞いてみたいものではあるが、しかし彼女の消息を知る手立ても今やもう失われてしまったのである。






この記事へのコメント

この記事へのトラックバック