【第五十六夜】 茂名南路の明かり

わたしが上海にいたころ、もっともよく出かけたのは南京東路と茂名南路だった。前者は和平飯店があり、後者には錦江飯店があるからだ。


シナ語で「飯店」とはホテルのことであるが、わたしは文字通り「飯を食う店」として利用していた。

そのころはまだ食糧配給切符「糧票」というものがあった。つまり食糧が充分ではなく配給制なのであった。ゆえに街の食堂などでも営業時間が決まっており、その時間を逃すと食事にありつけない。また時間に間に合っても配給切符がなくても不可であった。

しかし外国人向けのホテルである和平飯店や錦江飯店などのレストランは基本的に終日営業していた、はずはないので、営業時間が他の「人民食堂」(とわれわれは一般シナ人用のレストランを呼んでいた)よりはずっと長い、という程度だったかもしれない。

大学の学食も留学生用は別にあって、国内学生用よりはずっとましな味付けではあったが、これも食事時間を逃すとアウトであった。

そこで致し方なく、あるいははじめから今日は和平飯店で四川料理を、などという贅沢が留学生にはできたのであった。


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茂名南路の錦江飯店は、味では和平飯店には及ばないが、上海人のメインストリートである淮海路に近く、食前食後の街歩きや買い物にはより便利であった。


といっても大したものがあるわけではない。しかし輸出用のスパゲッティを商う店、ロシア風(フランスではない)のパンとケーキが食せる店、接客態度が(日本でならばごく普通ではあるが)当時の上海にしては抜群によく品質もよい茶葉が買える店とか、それでもなんとか気がまぎれる街、それが淮海路であった。



当時「中国」随一のローカル・シティ(世間の誤解が何時までも解けないが国際都市ではない)上海のアミューズメントとはそんな程度だった。



上海を去って十五年、前世紀の終わる年に上海を再訪した。


淮海路に覆いかぶさっていたプラタナスの並木は、植え替えられて若木となっていた。かってはフランス租界のメインストリートであったからフランス風の雰囲気もあったのだが、その再訪時にはなんだか東京にありそうなつまらない通りに変容していた。


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しかし錦江飯店はほとんど変わらなかった。外壁がクリーニングされて白っぽく見えたのも愛嬌であった。

その裏にあった「上海人民芸術劇院」は、「蘭心大劇院」と改名されていたが、もとの場所にあった。茂名南路と長楽路の角にあり、その入り口ははす向かいの旧フランスクラブの方を向いている。


しかしその劇所で何かを観劇したという記憶は無い。


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試みに入場してみた。その時は上演時間ではなく二階のダンスホールにあがった。薄暗いいかにもイギリス風の小さなホールであった。


そして昔ながらの泥水色をした香りのないアイス・コーヒーを飲んだ。わたしの世紀末上海への違和感がたちまち解消し、80年代中期のよどんだ溜まり水のような活気のない上海の有様が眼前に甦ってくれたのがうれしかった。

初めて上海をおとずれ、すべてのものに拒否反応を示していた愚息はまだ四歳だった。


彼にはイタリア風アイスを食べさせた。


まもなく他の場所での夕食中、不快さを表明した愚息をトイレに連れてゆくと、彼はさっき喜んで食した件のアイスをすっかり吐いてしまった。どうも古いものらしかった。それで愚息の上海に対するイメージが確定したようであった。



ゆえに彼は、二度と上海には行かないといいはって今日に至っている。

茂名南路の薄明かりが懐旧的ににじんでいる夜だった。






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